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孔乙己 リマスター

孔乙己(クンイーチー) 魯迅 1919年3月
日本語訳:中国外文出版社 誤字脱字修正:安東洪児

 ルーチェンの酒場の造りは、他の街とは違っている。通り側に弧を描いた大きなカウ
ンターがあり、スタンドの内側には燗ができるように熱湯が用意してある。
 労働者の連中は仕事を終えた後、銅銭4枚を投げ付けて酒を1杯買う(もっとも、こ
れは20年前の話で、今は1杯10枚は要るだろう)。そしてカウンターの前に立った
まま熱いの1杯やって休む。もう1枚銅銭を出す気になれば、たけのこの塩漬けや茴香
豆を食べることができる。もし10数枚も弾めば肉か魚の料理が取れる。しかし、ここ
の客はほとんどが労働者なので、そんな贅沢はやらない。長い着物を着たお役人だけが
個室の部屋に通されて、肉や魚を取り、ゆっくり腰を落ち着けて飲むのだった。

 私は12歳の時から、街はずれにあったシェンホン酒場で小僧をした。店主はお前は
気が利かなさそうだから、お役人の相手は務まるまい。だから表の仕事をやるように、
と言った。労働者の連中は気安かったが、やれ水で酒を薄めるなとか、やれつまみの量
が少ないとか文句が多かった。これではごまかすのも難しい。数日もすると、店主はお
前はそんな事もできないのか、と私を叱りつけた。しかし、世話人が顔の効く人だった
ので、クビにもならずお燗番という退屈な役目に移された。

 私はそれ以来、1日中スタンドの内側に立って自分の役目に専念した。これと言う失
敗はなかったが、何より単調で退屈だった。店主は愛想が悪いし、客の労働者もケチ臭
くて活気も出ない。ただ孔乙己が店に来た時は、少しだけ賑やかになった。だから彼の
ことは今でもおぼえている。
 孔乙己は立ち飲みのくせに、お役人の長い着物を着ていた。背は高いが、青白い顔で、
顔にはいつも生傷があった。そして、無精ヒゲをぼうぼうに生やしていた。着ているの
は役人着に違いないが、ひどく汚れてボロボロになって何年も洗っていないようだった。
話をしても難しい役人言葉なので、聞く者は何がなんだが分からない。彼は姓が孔なの
で、誰かが手習草子の「上大人孔乙己」という知りもしない言葉の中から取って、孔乙
己とあだ名した。孔乙己が店に来ると、飲んでいる連中はみな彼を見て笑う。1人が、
「孔乙己よ、また顔に傷が増えたな」
 と言う。孔乙己は答えず、スタンド向かって、
「酒を2本つけて欲しい、茴香豆も1皿」
 と言い、銅銭を9枚ならべる。そばの客がわざと大きな声で、
「お前、また盗みをやったな!」
 と言う。孔乙己は目をむいて、
「汝、何故に証拠もなく罪の無い人のことを!」
「何が無実なもんか、俺は一昨日この眼で見たんだぞ。お前がホーの家で本を盗んで、
吊るされて殴られているのをな」
 すると孔乙己は顔を真っ赤にさせ、額に青筋を立てて弁解する。
「本を盗むは盗みとは申さん・・・本はな・・・読書家にとって盗みとは申さんのだ・・・」
 その後は「君子、敢えて窮す」とか「ならんやべからず」だのわけの分からない事を
言う。それで皆がどっと笑い、店の内外に朗らかな空気があふれるのだった。

 人の噂によると、孔乙己は元は学者を目指した人間だそうだ。ところがとうとう試験
に受からず、暮らしを立てる才覚も無かった。そこでだんだん落ちぶれて、乞食寸前ま
で来てしまった。幸い、彼は字が上手かったので、書物の筆写をして食いつないでいた。
だが彼には悪い癖があった。酒飲みで怠け者なのである。5日と仕事を続けられず、本・
紙・筆・硯もろとも、どこかへ売り払ってしまう。これが重なると、誰も書物の筆写を
頼まなくなった。そこで孔乙己は仕方なく盗みを働くようになった。だが、彼は酒場で
は行儀も他の連中よりは良く、ツケを溜めることも少なかった。たまに持ち合わせが無
く、黒板に名前を書かれても、1月の内にきれいに払って、黒板から孔乙己の名前は消
えるのだった。

 孔乙己が半分ほど飲むと、紅潮した顔が元に戻る。すると脇の男がまた尋ねる
「孔乙己よ、お前本当に字が読めるのか?」
 孔乙己は男の顔を見て、答える気も無いといった表情を作る。男はまた続ける
「お前、どうして試験に片足も引っ掛からなかったんだ?」
 それを聞くと孔乙己は一変にしおれて、ソワソワし始める。顔が灰色に沈み、口では
何かを言うが、初めから「さよう、しからば」の類でまるで分からない。こうなると皆
もどっと笑う。店の内外に朗らかな空気があふれる。
 こんな時には私も一緒に笑うのだったが、店主は叱らない。それどころか、店主は孔
乙己を見かけると好んで自分から問いかけて、笑いを取ろうとした。孔乙己は彼らとは
話もできぬと分かると、仕方なく子供を相手にする。あるとき私に言った。
「君は、字を習ったことがあるかな?」
 私はうんとうなずいた
「そうか、ひとつ私が試験してやろう。茴香豆の茴の字は、どう書く?」
 私は思った、乞食同然の男に人を試験する資格があるのだろうか。私はそっぽを向い
て相手にしなかった。孔乙己は待っていたが、やがて親切な口調で言った
「書けないのかな?・・・私が教えてやるから覚えておくんだよ。将来、自分の店を持
つとき帳簿をつけるのに必要だよ」
 私は密かに思った、自分の店を持つなんて有りえないじゃないか。それに、ここの店
主だって茴香豆を帳簿につけたりしない。おかしいやら、うるさいやらで答えてやった
「誰が教えて欲しいもんか、草かんむりの下に1回2回の回じゃないか」
 孔乙己はなぜか上機嫌になり、2本指の長い爪でスタンドを叩いてうなずいた
「そうだ、そうだ! しかし、回の字に4通りの書き方あるのは、知っているかな?」
 私は我慢できず、口をとがらせて離れていった。孔乙己は爪を酒に浸して、スタンド
の上に字を書こうとしていたが、私にその気が無いのを見ると、溜息をついていかにも
惜しそうな表情になった。
 時折、近所の子供たちが笑い声を聞きつけて、孔乙己を取り囲むこともあった。する
と彼は子供に茴香豆をくれてやる。やるのは1粒だけである。子供たちは豆を食べても
離れずに立って、じっと皿を見つめている。孔乙己は慌てて手を皿にかぶせ、腰をかが
めて言う。
「もう無い、もう無くなった」
 腰を戻すとまた豆に眼をやり、首を振りながら
「無い無い。多ならんや、多ならざり」
 そうすると、子供の群れも笑い声の中、どこかへ散っていくのである。
 孔乙己はこのように人々を愉しませた。だからといって、彼が居なくても他の連中は
気にもかけなかった。

 ある日、たぶん中秋の2、3日前だろう。店主がツケを締めにかかっていたが、黒板
をおろすと言った
「孔乙己をしばらく見ないな。まだ19文の貸しだ」
 私もそれで孔乙己のことを思い出した。そばで聞いていた客が言った
「来られるもんか、あいつは足を折られたんだ」
 店主が「へえ!」と言った。
「あいつは、懲りずに盗みをやったんだ。今度は何を血迷ったのか、チャオ旦那の家に
盗みに入ったのさ、あの家の物が盗れるかってんだ」
「それからどうなった?」
「まず詫び状を書かされて、それから袋叩きさ。夜中まで殴られて、おまけに足を折ら
れちまった」
「それから?」
「それからって、足を折られたのさ」
「折れてどうなった?」
「どうって、知るもんか。死んだかもしれんよ」
 店主はもうそれ以上は聞かず、ゆっくりとツケをまとめ始めた。

 中秋が過ぎ、秋風が刻々と冷たくなり、あっという間に冬になった。私は1日中、火
のそばにいるのだが、それでも綿入れを着ずには居られなかった。ある日の午後、客も
いないので、私は腰を下ろして居眠りをしていた。すると、ふと
「1杯つけてくれ」
 ごく小さいが、聞き慣れた声が聞こえた。目を開いたが誰もいない。立ち上がって外
を見ると孔乙己がスタンドの下に座っていた。その顔は真っ黒で、痩せこけて見る影も
無かった。ボロを着て、あぐらをかき、床にガマの葉を敷き、それを荒縄で肩に吊るし
ていた。私を見るともう1度言った。
「1杯つけてくれ」
 横から店主が首をのばして言った。
「孔乙己か、お前まだ19文の貸しだ」
 孔乙己は酷くしょぼけた顔を上げて、
「それは・・・次に返す。今日の分は現金だ、酒はいいやつ」
 店主はそれでも、いつものように笑いながら言った。
「孔乙己、お前またやったな」
 しかし、この時はあまり弁解せずただ一つ言った。
「冗談言っちゃいけない」
「冗談? もし盗みをやってないのなら、足を折るわけあるか?」
 孔乙己は低い声で、
「転んだんだ、こ、転んで・・・」
 彼の眼は、これ以上言ってくれるなと懇願しているようだった。その時にはもう何人
も客が集まっていて、店主と一緒になって笑った。私は酒の燗を作り、両手で持ってカ
ウンターの下に置いてやった。彼はボロボロのふところから4枚取り出すと、私の手に
乗せた。見ると彼の手は泥だらけだった。彼はその手で這ってここまで来たのだ。やが
て酒を飲み干すと、まわりの人の笑い声の中を、手でノロノロと這っていった。

 それ以来、またしばらく孔乙己を見なかった。年末が来て、店主が黒板を下ろし「孔
乙己め、まだ19文貸しだ」と言った。翌年の端午の節句になると、やはり「孔乙己め、
まだ19文貸しだ」と言った。中秋節になった時は、もう何も言わなかった。もう1度、
年末になっても彼の姿は見えなかった。
 私は今日に至るまで、ついに彼を見なかった。たぶん、孔乙己は死んだのだろう。