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本拠は http://m4oism.org/xxx

プライベート・ソドミーニアック『防空壕とクソガキと死体』

(防空壕編)

私の生まれた所はクソ田舎であったが、大東亜戦争中には陸
軍か海軍の管轄かは分からないが、小さな滑走路をもつ飛行
場と、兵役から脱落した地元のバカや精神異常者やロクデナ
シを働かせる兵器工廠があり、近隣工業都市の防空体制の末
端を担っていた。しかし、大日本帝国の敗色が濃くなると、
このクソ田舎でさえ鬼畜米軍に目を付けられて、それらは数
回の爆撃を受けて壊滅した。

その戦闘中、バカの撃った高射砲がまぐれ当たりし、パラシ
ュートで脱出した米兵を村民たちが農機具でリンチして撲殺
した。そいつを村の中心に鎮座する、皇太神宮直轄の神社に
そびえる大鳥居へと吊るしまして、現人神たる天皇睨下にさ
さげた後、バラして皆でなかよく食べましたとさ。(バラせ!
毛唐ペニス!)

旧・日本軍では米英兵の肝臓を食うと弾が当たらない、など
という迷信が主に一部の上級将校と下級兵たちの間で流行っ
たそうだ。中国大陸での長い戦闘生活で、漢民族の食人文化
を吸収してきたのであろう。

などという民俗伝承は無く、私の祖父母とその近隣住民たち
は早々に防空壕へとバックレて、生命の危険に駆られて欲情
し、自分たちの子孫を残そうとヤり狂っていたに違いない。
そして、この爆撃に怯えながらのファックでできたガキのガ
キが私というわけだ。私が静寂のなか、突発的に起こる騒音
に異常な恐怖を感じるのは、特殊精神衛生学的に言えば、こ
の時に分泌された精子の遺伝情報が色濃く受け継がれている
為だろう。

しかし、こいつらには一億火の玉・七生報国・護国救済・尊
皇討奸・玉と砕けろ、という気概は存在しなかったのか? 
思うにどうやら、この村にはヒロポンの配給はされていなか
ったようだ。南洋の海上の戦闘機乗りたちは、ギンギンにキ
メたシャブで帝国海軍が世界に誇る零式艦上戦闘機を手足の
ごとく操り、敵機銃弾すら目で交わし(眼パイ)電光石火の
速さで敵機背後に回り込み、次々と格巴戦をモノにしていった。

だが、今となっては誰も責めまい。私だって空から米軍の爆
撃機が来たら隠れてしまうし、ロシアの戦車が上陸してきた
らさっさと逃げるから。

でも、逃げ出したその夜、こっそりと戻ってきて爆撃機の機
体にラッカー・スプレーを使って毒々しい下品な単語をたく
さん書き殴ったり、戦車の砲塔には猫やイカの死骸などを詰
め込んだりといった、テロリズムに走る夢をかなえる機会は
逃さないであろう。

小学生の頃は芯からの無頼漢であったが、中学生になって突
如、極度のノイローゼに落ち入り、それを消化してからは完
全な自閉体になってしまった私でも、生憎そんなナーバス作
戦を敢行するぐらいの気概は持ち合わせているつもりだ。

(死体編)

時は流れて現在へ、ここはあの頃と何も変わってはいなかっ
た。

あの防空壕は風雨にさらされ、一見朽ちたように見えるが曲
がりなりにも要塞の端くれである。今でも、100kg爆弾の直
撃くらいなら耐える事ができそうだ。そんな国民の生命を守
る施設も、半世紀近く後には地元の腐れ小学生の溜まり場に
なっていた。1980年末期、半径500m内にジュースの自動販売
機すら無かった(なぜかエロ本自販機はあった)場所で育っ
た野卑な児童たちは、立ち入り禁止の看板を無視して、厳重
に張り巡らされた鉄条網の一部分を切り裂き、何ぴとにも不
可触な領域を手に入れていた。

幼年期の長い期間、私たちはそこに篭もり、適当な畑からか
っぱらってきた農作物を貯蔵して食ったり、父親からくすね
た煙草を持ちよってふかしたり、拾ったエロ雑誌を隠し込ん
だり、単にダラダラと過ごしたり、壕内を掘ってさらに拡張
したりしていた。田舎モノ特有の視野の狭いシニシズムを早
々に獲得したガキどもは、家や家族よりもこの防空壕に安息
を見出していたように思える。

ある年の夏休みになり、早朝のラジオ体操を終えて一旦帰宅
してから私たちは例の場所、防空壕に集まった。その日、一
日をどのように遊ぶかを思案するまでもなく、適当に何かし
ていればそれだけで楽しかったが、どんな出来事も思い出に
なれば嫌でも美化されてしまうし、ガキは頭が悪いからか下
らないことでも快楽中枢が刺激されるので、いまいち信用が
置けない。

その当時、私たちのメインの遊びはドラクエごっこであった。
これは3〜4人でパーティーを組み、武器防具(主に木の枝
や石)を装備してさまざまな場所を徘徊しながら経験値(昆
虫を殺したり、崖から飛び降りるといった危険な行動をとる
と上昇)を上げレヴェルアップ(一定の経験値により自己申
告、またはメンバーの判断により)させていくという当時、
流行を極めたRPGゲームの要素を現実に持ってきた遊戯であ
る。

その日、我々パーティーの目指した場所は村外れの森に存在
したという飛行場跡であった。戦後に生まれた一部の子供が
必ず抱く、滅んだ祖国・大日本帝国に対する憧憬という物を
私たちは全員持っていた。その身近にある亡国の面影を見に
行くということもあってか、その日に冒す危険には気合いが
入っていた。

村を徘徊しているジジイ・ババアに攻撃を加え、ブランコに
逆立ちしてのダイヴ&ダイヴ、盗んだザクロの実を回し食い
して、クリフハンガー冒険隊のオープニングテーマをがなり
ながらヨレて、イカレて、肩で風を切って歩いていた。

神社の裏にある森林をぬけた私たちは、ガマの木が生い茂る
湿地帯に辿り着いた。周囲を取り囲む、この森の風景と不釣
合いなコンクリート郡が、ここがかつて軍隊の施設であった
ことを物語っていた。

私たちは手を貸し合いながら、壊れた高射砲の台座に登って
辺りを見回した。干ばつした地面のようにひび割れた、アス
ファルトの滑走路が広がっているのを見て、私は何か深い感
慨に襲われた。これが、共倒れして逝った情の残像という物
だろうか?? かのアドルフ・ヒトラーが、「我々の造る建
築物は千年後、廃墟になった時にこそ美しくなければならな
い」と、お抱えの建築家たちに命じ設計させたという。その
時、私にはその意思を理解できるような気がした。

一握りのセンチメンタリズムに浸ったのち、我々パーティー
は本日の真の目的への準備に取り掛かり始めた。スタンド・
バイ・ミーの例を挙げるまでもなく、少年の集団が志向する
のはいつだって死体だ。子供の使う頭は、爆撃されたからに
はそこでたくさん人が死んだだろう、だからそこを掘り返せ
ば白骨死体が出てくるに違いない、という短絡的な考えさえ
働けば、どのような努力すら惜しむことが無い。

我々はめぼしい場所を決めて、用意してきたシャベル・スコ
ップを使いところかまわず掘り返し始めたが所詮、あらかじ
め失われ、決してめぐり会えぬ面影である。数時間ほど発掘
作業を続けても骨はおろか、軍服の切れ端すら出てこなかっ
た。このまま、この日は後に思い出されることも無い記憶の
断片となるはずだった。が、ここで己のネクロフィリアック
な趣向を固める事態が生じた。何気にスコップを突き刺した
地面から「人間の親指のつめ」が出てきたのである。

狂喜した私は急いで四散していたメンバーを呼び寄せて、徹
底的にそこ周辺の発掘をはじめたが、もうそれ以上は出てこ
なかった。全員、内心ではビビっていたし、ドクロやアバラ
骨とはいかなくても、確かに当時の死体の一部を手に入れた
のだ。満足したパーティーは最短距離で防空壕まで走って
(ルーラと呼んだ)帰ってこの捨てることのできないレアな
アイテム「したいのつめ」を宝箱にしまった。

それからの日々もドラクエごっこは続けられたが、以後、私
たちの行うどの遊戯も、どこか死や屍体の臭いを帯びる物と
なっていった。(プライベート・ソドミーニアック5「猟弄
狂時代」参照)

彼らにとって死体こそ「にじのしずく」であり「じゃしんの
ぞう」であり「さいごのかぎ」なのであった、私たちには
せかいじゅのは」など必要なかった。

※参考資料

ドラゴンクエスト・アイテム一覧、××市××町の歴史、廃
墟美学の理論